いま私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、憲法が保障するいくつもの自由や権利を制限されている。臨時休校では子供たちの教育を受ける権利が奪われたし、大規模イベントや外出の自粛要請は、営業の自由や移動の自由を損なう。

人類と感染症との闘いは、国家による公衆衛生と個人の人権とのせめぎ合いの歴史でもある。緊急事態宣言のもと、その折り合いを、どう考えればいいのだろうか。

「利害が相反する国家と個人をつなぐのは、他者を思いやる人間性。今の日本では、それが大きく損なわれている」と話すのは江藤祥平・上智大准教授(憲法)だ。

「感染症との闘いには、国家としての対応と個人としてのふるまいのふたつの側面がある。人類はその両方でウイルスに負けているという印象だ」

国家としての負けは、責任を個人に転嫁してきたことだ。「政治が自粛要請ベースで対策を進めていくのは、政治責任も、経済的損失を補償するコストもかからない一番楽な方法だからだ。これは責任を国民に押しつけ、結果的に『下からの総動員体制』というべき相互監視システムを作り上げてしまう。立憲国家としてあるまじき姿だ」と江藤さんは警告する。

安倍晋三首相が全国一斉の休校を求めた際に強調した「政治判断」についても、「法律が尽きるまでぎりぎりの努力をし、このままでは本当にだめだと考えた時、政治家として自身の職を賭して強制措置をとる。その覚悟こそ政治判断と呼ぶべきものだ」と疑問視する。

一方、個人の側の負けは、怒りや疑心暗鬼の矛先を互いに向け合い、総動員体制に無意識のうちに加担することだ。

休校中に街を出歩く子供らを責め、営業を続ける飲食店などに「なぜこんな時に」と批判する。居場所がないとか、最低限の収入を得るためといった、やむにやまれぬ事情に想像力を働かせようともせず、互いに傷つけ合う「私たちの人間性のありようが、ウイルスに試されている」と江藤さんはいう。

亡くなった人の命は戻らないし、失われた収入を取り返すのも容易ではない。そればかりか、人と触れ合い、感動や興奮を分かち合う場までもが奪われては、不満やいら立ちは募るばかりだ。感染拡大を防ぐため、個人としてできることをするのは当然だ。だが、その鬱憤をほかの個人に向けては、ウイルスの思うつぼだ。奪われた日常を懐かしみ、取り戻したいという思いを共有する。これが人間性を回復し、困難を克服する糧になる。

私たちにできる奇跡は、今を一生懸命生きることだと思います。